災害に強い屋根材を求めて〜江戸・東京の屋根の移り変わり

東大に江戸時代の瓦屋根

日本を代表する最高学府、東京大学。その本郷キャンパスのシンボルとなっているのが、通称「赤門」です。江戸時代後期に建てられたものですが、もともとは何の門だったのか、ご存知ですか?

赤門は、旧加賀藩の上屋敷の表門として、1827年に建立されました。上屋敷とは、地位の高い武家や大名が住居としていた屋敷のこと。その門として、切妻造の瓦屋根を冠した立派な造りとなっています。

この屋根の葺き方は、棒状の丸瓦と平たい平瓦を組み合わせる本瓦葺きという方法ですが、重厚で豪華な印象があります。加えて、大棟の飾り瓦には徳川将軍家の三つ葉葵、軒先に使用する軒瓦には加賀藩前田家の家紋である梅鉢紋の細工が施されています。梅鉢紋は学問の神様である天満宮の神紋でもあるので、東大にふさわしいものですね。

また、屋根の頂上である棟には、丸瓦を使って青海波という波の模様を表現しています。このように、赤門の屋根はとても凝った造りになっているのです。

瓦屋根が普及した理由とは

このことから、江戸時代には、瓦の製造や施工について高い技術があったことが想像できます。屋根材としての瓦は奈良時代に中国から伝来しましたが、広く普及するようになったのは江戸時代に入ってからです。その理由として、瓦の製造や施工技術の進歩に加えて都市防災の必要性がありました。

江戸時代の始まりとともに、日本中で城下町が建設されるようになります。城下町は城を中心に武家屋敷や町家が集中する現在の都市の原型です。密集する建物を火災の延焼から守るために、それまでは一般的だった茅葺きや板葺きに代わって火に強い陶器の瓦屋根が増えていったのです。

すぐには広がらなかった瓦屋根

江戸時代の東京、江戸は人口50万人以上の大都市であったといわれています。江戸の町は密集し「火事と喧嘩は江戸の華」というように、火事が多く、類焼で大火になることが何度もあり、江戸の火災対策は大きな課題でした。しかし、江戸時代初期には、防火性が高いにもかかわらず、瓦屋根は高価なため武家や裕福な商家などに限られていました。

また、1657年の明暦の大火のあと、幕府は瓦葺き禁止令を出しています。大きな火災のあとにしては異様な命令に思えますが、当時の消火法は建物を壊す破壊消火が基本でした。瓦屋根だと消火のときに瓦が落下して危険だったのです。

瓦以前には、こんな屋根材も

とはいえ、茅葺きや板葺きの屋根では、火災に対してはやはり不安があります。そこで、幕府は屋根を牡蛎の殻でおおうよう勧めました。屋根材に牡蛎の殻とは不思議ですが、当時東京湾では牡蛎がたくさん採れたため、その殻も手に入りやすかったのです。

身近なもので江戸の人たちの住まいを守ろうとしたのでしょう。実際の防災効果は定かではありませんが、江戸の町では「蛎殻(かきがら)屋根」が広く普及しました。

1720年、一転して、幕府は瓦の防火性を重視し、武家から一般の庶民にまで奨励するようになります。本瓦よりも軽く施工しやすい桟瓦(さんがわら)の発明などもあり、この後、瓦屋根が江戸に急速に広がりました。そして、赤門のような歴史に残る美しい瓦屋根が数多く作られたのです。

日本では住宅の屋根材として最も多く使用されている瓦ですが、普及するにあたっては、このような紆余曲折があったのです。それは、災害に強い屋根を求めた歴史ともいえます。

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